加賀大介は「栄冠は君に輝く」の作詞家 松井秀喜との関係

夏の風物詩高校野球。

球児にとって「甲子園」は憧れの夢の舞台。選手ひとりひとりに物語があるように、全国高校野球の歌として誰もが一度は聞いたことがある「栄冠は君に輝く」にも物語があります

なぜ半世紀を超えた今でもなお 「栄冠は君に輝く」のうたが愛されているのか、作詞をされた「加賀大介」さんについてリサーチしてみました。

加賀大介

1914年10月 石川県能美郡根上町生まれの作詞家

出生名は中村義雄、のちにペンネームでもあった加賀大介に改名

加賀大介さんも野球少年として育ちました。子供の頃は毎日野球に明け暮れる 野球少年だったそうです。

16歳の時に職場の野球の試合による怪我がもとで、「骨髄炎」を起こし、右下肢を切断し野球を続けることができない体になってしまいました。

麻酔の技術も発達していなかったこの当時、早慶戦をラジオで聞いて、痛みを忘れようとしていたほど野球が好きだったといわれています。

野球への想いは強く、野球ができなくなってからは、自宅前の浜小学校で、子供たちが野球をする様子をよく見ていたといわれています。

また文芸賞をとって東京に行く目標をもったそうです。

それが、文芸を志した加賀大介にとって甲子園に値する場所だったのではないでしょうか。

「栄冠は君に輝く」の作詞者と公開されてからも、何度も甲子園への招待を受けられたそうですが、生涯一度も甲子園に足を運ぶことはなく、頑固で亭主関白な人だったそうです。

加賀大介作詞の「栄冠は君に輝く」

栄冠は君に輝くは1948年朝日新聞社が2代目大会歌として全国を対象に歌詞の懸賞公募を実施されました。

応募総数5252篇中から、最優秀作品に選ばれたのが 加賀大介さんの「栄冠は君に輝く」の詞でした。

入選発表時は「加賀道子」とされていました。これには訳があり、加賀大介さんが、懸賞金目当てと思われるのを嫌がり、当時の婚約者で、のちの妻となる「道子」さんの名を使って筆名「加賀道子」で応募したためです。

1968年50回大会で加賀夫婦が真相をかたり「加賀大介作詞」と改められた。

勝利や成功だけではなく、ここに至るまでの努力や友情、感謝の気持ちのすべてが「栄冠」という言葉を指し、「栄冠は君に輝く」は、球児だけではなく全てのスポーツ選手、そしてスポーツ以外であっても、誰もの努力は報われるという事 勝った、負けたではなく、そこに至るまでの経緯が大切であり、また 自分一人ではなく、支えてくれた人も含めすべての人が「輝いている」という事ではないでしょうか。

長く愛されているこの歌は誰もに当てはまるからだと思います。

全ての人の応援歌ではないでしょうか。

加賀大介と松井秀喜の関係

野球を愛し、野球ができなくなっても、歌詞に込めた野球少年の想いを、国民栄誉賞受賞の松井秀喜さんが引き継いでいるのでは?と都市伝説があるそうです。

松井秀喜さんは加賀大介さんの生まれ変わりではないか と言われているそうです。

理由としては、まず、加賀大介さんと松井秀喜さんの出身地が同じ「石川県能美郡根上町」であること。

加賀大介さんの死から約1年後に松井秀喜さんはが生まれている。

同じ血液型。

前世において加賀大介さんが野球をしたくてもできなかった無念を、松井秀喜さんとして生まれ、現生でのびのびとプレーをしているのではないかと言われています。

加賀大介さんの妻、道子さんが、松井秀喜さんが活躍した年に、松井家を訪れて松井秀喜さんから「この歌が大好きです」と言われたそうです。

また、加賀大介さんの娘さんは、松井秀喜さんの出身の小学校、浜小学校の校長を務めておられたそうです。

毎年甲子園では、多くのドラマが生まれます。

出身地を応援していても、相手が負けていると、負けている方も応援し、結局は両校を応援してしまいます。

試合が終わった後は、勝った 負けたではなく 一生懸命のプレーに感動をもらい

「ありがとう」の気持ちになり胸がいっぱいになります。

さぁ 私も頑張ろう!という気持ちにさせてくれます。

高校野球が終わると、夏の終わりを感じ、少し寂しい気持ちにもなるますが、また

来年・・・と楽しみでもあります。

コロナの時期には、大会が中止となり心が痛みました。

甲子園を夢見て幼い頃から努力をしてきた球児たちのことを考えるといたたまれない気持ちにもなり、見守ってこられたご家族の方のこを思うと残念な思いでいっぱいになりました。

大会中止と判断した関係者の方々も大変な決断だったと思います。

この歌詞にあるように、勝敗だけではなく 若者の青春の輝き、努力、希望が立たれることなく 「栄冠は君に輝く」であってほしいと思います。

 

 

 

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